名君なのに嫌われ者

こんにちは。

売上と社員のやる気を一度に伸ばす事を支援する
ウィズスマイル降旗(ふるはた)です。

学生の頃に学んだ歴史が、
どんどん変わっていることに
本当に驚きます。

鎌倉幕府は、1192年ではなく、
1185年に事実上開府していたとか。

聖徳太子は、厩戸王であり、
あの慣れ親しんだ聖徳太子像は、
実は後世、奈良時代の別人だとか。

そんな中、
またまた驚きがありましが。

あの名君だと思った将軍様が、
なんと、庶民からのチョー嫌われ者だった
というのです。

■ 改革を行なった将軍

将軍というと、
徳川幕府の歴代将軍を思い浮かべます。

徳川家康に始まり、
秀忠、家光、綱吉、吉宗、慶喜。

よく知られた将軍といえば、
暴れん坊将軍でしょうね。

フィクションのTVドラマですが。

実際には、享保の改革を行い、
幕府財政を立て直し、

大岡越前の名裁きや
目安箱に小石川療養所などなど、

改革を行なった名君として、
学生時代は覚えたものです。

それが実は経済音痴で、
庶民からはチョー嫌われていた、
というのですね。

■ 幕府は良くなったけれど

吉宗が将軍になった頃、
幕府財政は
大変なことになっていました。

吉宗は、考えたわけです。

幕府を存続させるために、
財政を立て直そうと。

そこで倹約令をしき、
大奥を縮小します。

幕府財政は年貢米で
成り立っていたので、
天領での新田開発を進めます。

当然、コメの収穫量は増えます。

しかし、
需給バランスが崩れるので、
米の価格は下落し、
税収は思った様に増えません。

そこで、
米の価格を上げる
強硬策に打って出ます。

次々に繰り出される米政策に
農民達は振り回されます。

庶民は吉宗を「米将軍」と揶揄。

さらに、
幕府の財政をよくするため、
年貢を4割から5割に増やす
大増税を強行。

百姓の緊急時の蓄えまで、
年貢で取り立てることに。

「胡麻の油と百姓は
絞れば絞るほど出るものなり」
との有名な言葉は、
この時に生まれたとか。

幕府の貯蔵を
100万両(1000億円)
までに増やしたと言われます。

■ 同じことをしても真逆の評価

極端な倹約と増税で
庶民、百姓の不満は爆発寸前。

こんなか、1732年に
害虫による大飢饉が発生。

各地で一揆が起こり、
江戸で初めての
打ちこわしが発生。

歴史研究家 河合敦先生によると、
「時代劇やドラマだと
正義の味方という
イメージがあるが、
経済音痴の面もあり、
庶民には嫌われていた」
とのこと。

暴れん坊将軍のイメージが、
一気に崩れ去りました。(笑

一方、

同じ様に米の生産を増やす、
という策を行なったのに、

領民から慕われ、
「おらが国は日本一だ」
と言わしめた領主がいます。

アメリカ35代大統領
J・F・ケネディが尊敬した領主。

米沢藩藩主の上杉鷹山。

藩主になった時は米沢藩は火の車。
そこで経費削減を行います。

次に、作物の収穫量を
増やすことに取り組みます。

吉宗とやっていることは
ほぼ同じです。

吉宗は庶民から嫌われ、

鷹山は改革を
成功させるだけでなく、
領民から慕われました。

あまり知られていないだけで、
本当に名君・名藩主でした。

この違いは
どこから来るのでしょう?

■ どこに焦点を当てるか

鷹山は、
細井平洲から帝王学を学びます。

細井平洲の薫陶を受けた人は、
西郷隆盛や吉田松陰など、
たくさんいます。

細井平洲の教えの中に、
領民の生活・幸せの上に
武家の政治が存在する
という様な内容があります。

藩政が成り立つためには、
領民の生活が成りたち、
豊かになる必要がある、

ということを、
鷹山は幼少より知っていました。

領民の生活を良くするために
次々と手を打つので、
自然に米の増産になり年貢が増え、
藩が潤うことになりました。

一方の嫌われ者の吉宗は、
幕府のことだけで、
頭がいっぱいでした。

百姓、庶民のことは考えず、
幕府が潤うことばかりを
考えていました。

経済を知っていた、知らなかった、
ということはあるでしょうが、

鷹山は政治の基本を知っていて、
吉宗は知らなかった、
といえるでしょう。

どこに着目して、
どこに注力するのか。

それによって、
同じことをやって、
結果と評価が変わる、
ということなのでしょう。

事業やビジネスでも、
自社の売上が増えること、
自社が存続することに
着目するのか、

その様なことは、
価値をお客様に
提供した結果にすぎない、
と知った上で行動するのか

この違いにも現れる様に思います。

「気をつけないとな」と改めて思います

 

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